昭和51年1月25日 朝の御理解
御理解第七十八節 神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。
「神の機感にかのうた氏子」というのはどういう氏子、どういう人をさして神の機感にかのうた氏子と仰せられるだろうかと思います。まあ一番最高のものが教祖様ですよね。実意丁寧、いわゆる神信心を貫かれるあの姿勢が素晴らしい。昨日を忘れ今日を楽しみ、いや、喜び、明日を楽しむそういう生き方をなさった。ね。昨日を忘れ今日を喜び明日を楽しませて頂く生き方。それがどのような事に出会われてもそういう生き方をなさったという事です。
昨日を忘れと言うことをは忘れてしまうという意味じゃないと思うですね。昨日起こった事を頭の中に残っていないことはないと思いますけれども。とにかくどういうような場合であっても昨日もありがたい1日であったお礼の言えれる昨日であったという事なんです。私はそう思うです。忘れ去ると言うことはで来ません。。昨日も本当にありがたい1日だった。そのありがたい1日が今日にもまた、続いておるから、いよいよ有り難い、もう自分の周囲自分の周辺を思い見てみるとあれもおかげこれもおかげと思わなければおられない事ばっかり。ね。ですから例えば私は明日を楽しむと言うことは第一目覚めのおかげが有り難いという人でなからなければ分からんと思う。朝目が覚めたと言うことが今日もそれこそ、びっくりするように、いや今日も生きておったと事実なんです。
ね。本当に私は目覚ましのおかげを頂いて有り難いという心が湧くようにならなければ明日を楽しむといったような信心にはならないと思う。そういう私は生き方の出来れる人を神の機感にかのうた氏子というのじゃないかと思います。
一番最後のところに、無事達者で子孫も続き、身代もでき、一年勝り代勝りのおかげが受けらるというそういうおかげの受けられる、一つの条件と言うものがです、昨日を忘れ今日を喜び、明日を楽しませて頂けれるという信心が身に付いてくると言う事です。
ね。神のおかげを知らぬから互い違いになってくると。今三つの事を申しました。神のおかげを充分感知させてもらう。感じさせてもらう。昨日例えばまあ普通でいうならば大変難儀な事であったろうけれども、それを神愛と悟らせてもろうてね、それを修行として受けさせて頂いて、始めて昨日も有り難いという一日と言うことになるのです。ね。ですから今日がまた有り難い。明日を楽しませて頂くということは、なるほど、神様のおかげでお生かしのおかげを頂いておったということから始まって、そして周辺周囲の一切があれもおかげこれもおかげという生き方が身につくのですから、神のおかげを知らぬからという神のおかげを充分に知ってというのですから互い違いになることもならなければまたは神の大恩を知らば無事達者で仰るのですから、神様のおかげを頂かなければという生き方が見に付いてくるのですから、いよいよ、いわゆる親の代よりもこの代子の代よりも孫の代というおかげが伴うてくるはずです。
昨日は、北野の上滝さんのお宅の宅祭り。年に一回づつ。宅祭りというのはやっぱり本当に昨日は、皆さんと話した事ですけれども、今度のお祭り上滝さん方が私は一番有り難いお祭りじゃったのと言うた事でしたけれども、もうとにかくこのようにおかげを頂いておるという事のいわゆる感謝祭という感じでしたね。もう何か、もうこんくらいでよかよかといったような感じのするいつものお祭りを感じたのですけれどもね、昨日はまあ上滝さん一家のものが、特に上滝さんを中心にしてもう本当に隅から隅まで感謝の意を表してという感じのお祭りでした。
昨日の、お祭りの後に私はお祭りの中に昨日のお話を交えてさせて頂いた。精進と用心ということである。今合楽ではそれこそ寒修行で沢山の人がもうそれこそ一心不乱に大払い信行のいうならば姿勢造り、あれこれ、あれを頼まんならんこれを願わんならんというのがその後のことであって第一の眼目は大払い信行の姿勢造りといったようなそれこそ無条件の修行を本気に取り組んでおる。いわゆる精進をしておるという事である。だからせっかく精進をして有り難い気持ちにならせて帰らせて頂くのですけれども、不用心にしておる。うかつにしておる。つい、ね、頂いたものを疎かにしてしまう。ね。
例えばあまりにもおご馳走が目の前にならんでおりますものですから、それに幻惑されてしまって、ね、食べ過ぎちゃいかんのみ過ぎちゃいかんと思いながらついつい不要人になってしもって食べ過ぎて、あー食べ過ぎた、少し胃が痛むの腸が痛むのと言う事になるようなご無礼なことをしたんではせっかくの精進が実らない。堂々周りの信心になるのだと。
というお話をさせて頂いたらそれこそまあ、おばあちゃんそれから、今上滝さんがまた次のおばあちゃんですかね、もうおばあちゃんがなべても九十近くですかね。元気です。それで上滝さん。それから息子達孫達それこそ、四代、今、続いておるわけです。あの生活をしておられるわけです。そしてあの私控えにお礼に出て見えてから、先生今日の御理解を頂いて確かに、私共の信心は確かにその親先生が仰っておるように、もう家族が円満団欒というですか実に、本当に素晴らしいです。嫁達の間の事であろうが、息子達の間のことであろうが、孫達のことの上にあろうが、もう本当に人間関係の上に素晴らしい、いつも、教えを頂き続けて用心しきっておるからです。確かに、今日の親先生のお話を頂いたように、私のほうみんなそういう意味で信心を心の中に頂いて大事にするという用心をしておりますけれども、私のほうには本当に精進が足りませんですもんねというて、これからは精進のほうに一つ気を入れて一つ信心させてもらうと挨拶に見えてから、そのことを言うております。ね。
なかなか精進が出来ても用心ができず。用心が出来ても精進が出来んでは本当の事にはならない。いわゆる、神の機感にかのうたという事にはなってこないのです。
昨日私は、丁度4時半に大和さんが御用を頂いてお迎えに来てくださった。お話は聞いておるお取次ぎをさせて頂いておったけれども最近うちの仕事用のまあトラックのような車でいつも参拝しておられましたが、この頃から自動車を買われた。もうそれこそ、嘘のように安い値段であった。私はだからまあ、ちょっと、本当にお粗末な車だろうと思うたんです。昨日私はあの、これはどこの車のちいうたらこれがこんどおかげを頂いたちたまがってしまいました。まあ素人の身ですから分かりませんけれども、どげん安くみつもったっちゃ五十万くらいはあろうごたる感じの中古車ですけれども、新しいです。それをなんと十三万円で分けてもろうた。まあそれに乗らせて頂いて大変ん乗り心地のよい車ですが、もうやっぱ日ごろのあなたの信心に神様がご褒美ば下さったとばいのというて、お話を致しました瞬間にね、自動車の中で上野愛子先生がね、もう、大体は真ん丸い顔ですけれども、それをもっとお月様のようにまんまるい顔なんですよ。もうふっくらとこうやって上野先生がにこっと笑ったところを頂いたです。
ね。これは本当に神様が日頃の信心にご褒美を下さったとよというなら、おかげをおかげとして分かったと言うことなんです。時にです上野愛子先生のお知らせを頂くといわゆる天地の親神様の代名詞なんです。最高の愛と言う字が書いてありますから、上野先生のお知らせを頂いたら天地の親神様という風に頂くわけなんです。それがもう本当に満月のお月様のような顔です。その顔が。しかもそれがにこっと笑いよりなさる、ほらねいかに神様が見ておいでである聞いておいでである、今この車が本当に日頃の大和さん達の信心に神様がご褒美を下さったようないうならばおかげでなくてなんであろうと分かった時です、神様がそのようにお喜び下さるという事でございます。ね。だからおかげをおかげと知ると言う事です。
昨日私はちょっとそれこそ、用心に用心をしておったのですけれども失敗をしとりました。ある方がお爺さんがお話をしてそれも自分ではまあ笑い話のようにしておられた。おばあちゃんがこの頃から流行りの風をひいて一週間ばっかり、今度の風は大変きつい。そしたらそこに、嫁さんがいいよりげなもん。
「ほんなもうばばしゃんばっかりが金光様金光様ばっかりいいよるけんが薬も飲まんけんいつまでん良くならん」ち。まあこれは、あの、別事ですけれでも、昨日小野病院の先生が参ってきてから今度の流行り風邪は医者の薬は絶対に効かないそうですよ。ね。もうただ卵酒どんのんでから寝取るほかにはないち。してもう今度のは用心しないととにかく、一件の病院に沢山風邪の患者が集まってくるが、三人四人殺したというか、その、死ぬほどにやっぱりきついらしいんです。
それやっぱりきついらしんです。けれどもなら、昨日の秋山さんが親子でやっぱその風をひいて息子さんが十日くらい休まれたんでしょう。こげなこっちゃいかんというて、元気を出して熱があるのにおしてあの、朝参りをしたその日からおかげを頂いたというのですから、ね、やはり神様のおかげを頂かなければ出来ることではないです。昨日その方のお話をあちらで聞きながらです、家の嫁達は大体根は悪いやつじゃないばってんか、口が悪いち。こげな金光様金光様ばっかり言うてから薬は飲まんけんでいつまでんようならんち。私はそれを横で聞きよってです、その方は笑い話で話よるけれども私のほうが腹がたった。あんなことありますよね。もう自分のことならば黙ってうけられるけれども、うかつです.その方がどうした嫁ごじゃろうかと。信心の無いものだといいながらしかもその親にそういう事を言うてから、そのお爺さんは笑い話で話すばってんそれを聞いた私のほうが腹がたってから、どうしたことじゃろうかのと口では言わなかったけれども、心に思うた瞬間にね、お野菜がこうやって盛ってあるのですよ。そのお野菜の中に小さいかぼちゃが盛りこんであったのです。そのかぼちゃがころころと落ちたところを頂きました。
例えばそれこそ自動車の中で天地金之神様がです本当におかげをおかげと感じ、本当におかげと言うておる事をそれこそ、まんまるい笑顔でそれを見てござる、聞いてござるようにです、ところがそれとは反対に自分のことではとても腹をたてまいのだろうけれどもそれが人事の場合はそれがうかつににです、ね、人事ながら腹が立つというのがありましょうが。だから人ごとにでも腹を立ててはいけないことが分かります。かぼちゃがせっかく神様のお供えのかぼちゃと言うことはいわゆる馬鹿のとかあほとかという代名詞のように、あいつはぼうふらのようなやつというのがあるでしょう。そういう意味なんですから、例えどういうひどいことを言われてもこっちが馬鹿とあほうでいきゃいっちょ、腹の立つはずがないです。昨日はそこんところを用心に用心をしておって自分のことの場合なら真正面にくるものならば、どっこいと受けられるのだけれども、それが人事である場合です、腹がたつ。それが本当に瞬間のことでございました。その御心眼を頂いてから、こんな油断があるなと思わせて頂いたのですけれども。
ね。せっかくお供えをしておるお野菜のかぼちゃがころころと転げ落ちるところを。ね。日頃馬鹿とあほうになりきるということは成るほど中々難しいことだという事を思わせていただきますね。神様の神の機感にかなう内容としてです、例えば今日の御理解のいよいよ用心と精進を積ませて頂き、用心に用心させて頂く心がけをもってしかも神様はそのように思うたことでももう受けてござる。ね。という事から、皆さん(?)をしてくださってです、なるほどおかげをおかげと感じただけでも神様はお喜び下さるのだと言う事。それとは反対に人事でも腹をたてたらです、もう馬鹿とあほうでの、信心がかけておって、いわゆるもうかぼちゃが転げ落ちておるというような事がね、段々、目細かく出来なければできません。 昨日私はおかげの泉の2月に出しましたのを下読みをさせて頂いて大変分かり、もうとにかく、この頃また言葉がこの、合楽弁になってとても分かるまいと思うです。ね。それで読ませて頂きながら今度の、牛馬の事にいたるまで実意を持って願えとある。ね。人間身の上のこともうそれこそなんなりともです、人事百般、ね、五穀豊穣、ね、家繁盛子孫繁盛のこと、商売繁盛の事。人間に痛い痒いがあってはならんそのことも、ね、いやそれは牛馬の事にいたるまで、実意を持って願えと仰せられる。
その実意を持ってねがえれる人こそ金光教の本当の信者だと説いてある御理解でございました。改めてそれを読ませて頂きながらそう感じさせて頂いたのですけれども、読みながら色々と感じることがあったんです。
ね。過去の信心から私共の信心から申しますとです、段々信心が高尚になってまいります。信心生活が出来る様になります。神様がちゃんと先まわりをしながらおかげをくださります。それは神様を信じる力が出来るからであります。ね。例えば難儀な問題が起こってもです絶対神様がおかげにしてくださると。それを信じるから神は信じるものをまた信じるという作用が起こってくるのです。
そういう私共の信心が何十年間それであったとこう思うのです。ね。ところがあの御理解を頂いてです実意を持って願えと。しかも牛馬の事に至るまでともうそれこそ一時が万次にお縋りしなければおられない。何故って、いよいよ自分の無力さ加減と言うものが分かったからなのです。しかも願わないことは、実意を欠いておるということが分かったのです。金光教で言う実意とは横着の無い心だと。わがままのない心だと言われております。自分の心からわがまま横着を取り除いたら後に残るのは実意なんだ。ね。神様を信じておればちゃんとおかげを下さるがとまあ言い放っておったと言うことはまあ何と横着なことであっただろうかと改めてきずかせて頂いた。
ね。神様を信じるが故にそれが頂くおかげであります。だから願わんでも頼まんでもちゃんと神様が下さる。だからおかげになって来たわけです。けれどもそれは金光教的ではない、金光教的な信心と言うのはいよいよ自分の無力さ加減が分かるところからです、もう一時が万事に縋らなければおられん願わなければおられないというその心こそが実意であるという事が分かったのです。ただ、頼む時だけ願う時だけという普通でいう 頼み信心とか願い信心とかいうのではないです。願わずにはおれんのです。
もうそれがね、命が今願わなければおられんのです。命から出てくるいうならば願いなのです。ね。それでいてです例えば結果はもうあなたにお任せしてあるという願いです。願わずにはおれない。そういう私は昨日読ませて頂きよってからあの、末永先生と読み合わせをさせて頂きながらふっと私はこのごろ末永先生がもう合楽で修行をさせて頂くようになって十年になると申しておりました。確かにそうでした。十年間もいうならば合楽で修行をしておる。しかも、ね、家内の方もやっぱりそのくらいになりますでしょう。ね。 神様は私を本当に今日の御理解を通して家の修行生の方達に聞いて頂かなければならんのですけれども、例えば成り行きを大事にするとか自然を尊ぶとかと言う事はですね、これは、ね、成り行きを願わせてもらうというところ。成り行きを願い成り行きを大事にするという事でなからなければ行けないと言う事。私今日思ったことは、サンフランシスコの福田先生が、ね、一日早く布教に出れば一日早く人が助かることだからどうでも止むに止まれない思いで金光様のお取次ぎを願われた。そしたら金光様は3年先と仰った。ところが三年間は待たれんわけです。そこで一生懸命修行をなさってからお教会の天井を毎日一年間拭かれた。という事は日頃疎かになっておるところをお掃除の修行をされたという事です。それから一年後にまたご本部参拝をされて、金光様にお届けなさったらそれこそ沢山な御神米が下がったそうです。そして早速布教に出てもよいというお知らせを頂かれたと言うことです。これは私共の考え方は間違っておった。神様は合楽で十年選手と言うならば、十年も修行をさせて頂いてまだ布教先が決まっておらんというのではいかん。これは銘々が取次者としておかげを頂かなければならんなら、1日も早う本当のことが分かり1日も早う、布教に出させて頂きゃ1日それだけ早く人が助かるのだからこれは一修行をさせて頂いて願わなければいかん縋らないかんという事をです、これは言わなければいけないと言う事を改めてきずかせて頂いた。ね。願わずにはおられんのです。その願う事にだから神様がちゃんと信心さえできよりゃちゃんといつかどこにか布教に出してくださる。これはあまりにも横着な心であったことに改めてきずかせて頂きました。
そして願わなければ。実意を持って願わせて頂くという事。そういう私は実意な信心ができていくところに神の機感にかなうという事になる。自分が無力であるという事が分かれば分かるほどに縋らなければおられないというね、自分の力を過信するという事は横着である。自分で何が出来るかと。あれも自分のもの、これも私のもだと、私のものがどこにあるか、一切が神様の御物だと言う事。ね。しかも私は神様のおかげを頂かなければここ一寸が動かれないのほどしの無力な私であるという事が悟れた時に分かった時に始めて実意を持って願わなければおられない、そういう信心、信者がです私は神の機感にかなうていくということではないでしょうか。
神を信じると言うことはです、確かに神様が信じるものを信じるという一つの、おかげの場と言うものは生まれましょうけれども、それは金光教的ではない、あまりにも実意を欠いておる。
願わなければおられん牛馬にいたるまでそれこそ縋らなければおられないという信心ができた時に始めて実意丁寧神信ができた時ではないかと言う事をきずかせて頂いて、なるほどこういう生き方ならばです、神を信じるだけではない、神様から信じられる氏子、いうならば神の機感にかなう氏子と言う事になるのではないでしょうか。ね。
そしてその間がです先ほども例えば例を持ってお話致しましたようにです、ね、神様が見ておいでである、神様が聞いておいでである、ね、おかげを実感した時にありがたいと思うたら神様がそれこそにっこり笑うて受けてくださるけれども、ね、人事にでも腹を立てたというたらもう、いうならばね、かぼちゃが転がり落ちておるような結果にしかならない、神様にお供えがお供えにならないのだと。ね。いよいよ昨日の御理解をもういっぺん頂きなおして精進することと同時に用心を細かにさせて頂いてね、いよいよ我無力であるところの事実を分からせてもらう時です本当に今朝目が覚めたと言う事に心の底からです、今日もお生かしのおかげを頂いておったという。ね。(?)喜びが心に湧いてくるのです。ね。
そういう信心がです私は出来ていく限り神の大恩を知った事になるのであり、または神のおかげを知った事になるのであり、神の大恩を知った事でありますから、神のおかげを知らんから違い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き身代もでき一年勝り代勝りのおかげを受けることができるというおかげに繋がってくるのですよね。
どうぞ